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【さん生さんちの台所】第7号

●台所エッセイ『人見知り』

噺家のかみさんとして、あるまじきことなのかもしれないが、実は
相当な人見知りである。他人とうちとけるのに、まずかなりの時間
を要するし、一旦うちとけたあとでも、心から和んで話せるように
なるにはさらに手間ひまがかかる。近頃は年齢とともに老獪さを増
してきたせいか、以前に比べればさほどひどくはなくなったものの、
それでもいまだに人の眼を見て話すのは得手ではない。

人の眼を見て話せないのは心にやましさがあるからだ、と言われる
が、それがほんとうなら私などさしずめ「やましさのかたまり」と
いったところだ。相手が初対面の場合は尚更である。今知り合った
ばかりの人の目を平気でのぞき込むなどという、そんな恐ろしいこ
とは私には到底出来そうにない。

その人が何を考えているのか、何を抱え込んでいるのかなどといっ
たことは、無論ちょっと見ただけでわかるはずもない。だが、わか
らないからこその恐ろしさというものはある。ろくに知りもしない
はずの相手の眼の中に、悪意が潜んでいたり、憎悪が燃えていたり
したら、そして、たまさかそれを覗き見てしまったとしたら・・・。
そう思うと総毛立つほどに恐ろしい。ほとんどサイコスリラーの世
界である。

見られる方も、ほんとうは嫌なんじゃないのか、と思うときがある。
いくら何でも見られたくないものはあるに違いない。たとえばひそ
かな恋心、それも道ならぬ恋の片思い、なんて相手に知られた途端
に自殺したくなるほど恥ずかしいのではなかろうか。ところがそう
いう困った感情に限って、眼は案外如実に真実を語る。眼とは、か
くも厄介な代物なのである。

隠すことで保てる美しさ、それを日本では「たしなみ」あるいは
「つつしみ」と呼ぶ。眼を見るということは、つまりそういう領域、
隠しておきたい、または隠しておかなければならない感情、領域に、
土足で踏み込んで行くことにつながるような気がして仕方がない。

考えてみれば、話すときは相手の眼をきちんと見るべきだ、などと
いう些か無遠慮で無粋な思想は、本来日本にはなかったのではない
かと思う。むしろ慎み深く伏し目がちで話す姿勢が、かつては好ま
れたのではないか。だからこそ乾坤一擲、ここぞというときに眼を
射る、眼で殺す、眼で倒す、そういうことが可能になるのではない
か、などと勝手に想像しているのだが、所詮はいつまでたっても人
見知りを直せないでいる意志薄弱な人間の負け惜しみなのだろう。

だいたい私自身が、隠すことで云々、などという慎み深い女性では
ない。心の奥の「やましさ」も含めてまるで開けっぴろげである。
まったく無防備もいいところだ。だが、だからこそ、そこに踏み込
まれるのを極端に恐れるのである。相手の領域を侵すことより、自
分の領域を侵されることに、多分、より大きな恐怖を感じるのだ。

人見知りというのは、恐らくそういうものである。要するに人一倍
小心で、臆病で、自分の卑小な姿を見透かされるのを何よりも恐れ
ているのである。そこには実は人から良く見られたいという、少な
からぬ虚栄心も混じっているわけで、そのように突き詰めてゆくと、
何だか自分がひどく情けない人間のようにも思えるが、同時に愛お
しさも禁じ得ない気持ちにもなるから不思議である。結局のところ、
人見知りの強い人間ほど、自己愛もまた強いのかもしれない。

いずれにしても冒頭にも書いた通り、噺家のかみさんとしてはこの
性格は明らかにマイナスである。噺家はいわば客商売、かみさんは
その補佐役をつとめる立場なのだから、誰とでも抵抗なく馴染める
ような性格が望ましいことは言うまでもない。出来れば夫の名代と
して方々に挨拶に出向いて尻込みしないような、そういうかみさん
こそが理想であるに違いない。

さん生も私に、そういうかみさんになってほしいと思っていたのか
もしれない。「そんなに怖がることはないじゃないか」と時折心底
から呆れている。富山の繁華街で育った彼は、幼い頃から人見知り
はおろか、物怖じすらほとんどしなかったという。赤の他人に平気
でなつくような子供だったらしい。そんな彼には私の極端な人見知
りが不思議でならないのだろう。

残念ながら、私の人見知りはちょっとやそっとでは直りそうにもな
い。どうかすると新聞の勧誘や訪問販売のセールスマンにまで人見
知りするほどなのだから、馴染みのない場所を訪ねて、馴染みのな
い人と挨拶を交わし、十年来の既知のように世間話をするなどとい
う芸当は、とてもできっこない。

それでも曲がりなりにも18年近く、噺家のかみさんをやっている。
他に使い道があるからだろう、などと自分で自分を慰めることもあ
るが、ここはやはり寛大な夫に、まずは感謝しなければならないだ
ろう。





●テレビあらさがし

少々旧聞に属する話題を二本。

恋多きことで知られる某女優の電撃結婚に際して、「挙式を挙げる」
との表現が。コメンテーターが生放送で述べるとか、当人が会見で
うっかり言っちゃったとかなら苦笑する程度ですむが、これが何と
きちんと編集されたVTRでのナレーションの中でのこと。まった
く、誰だよ、こんな原稿平気で書くのは。「挙式を挙げる」って書
いただけで間違いに気付くだろう? と思ったが、しかし、その人
が「挙式」は「上げる」もんだと思ってたとしたら・・・? こう
なるともう、救いようがないというか、なんというか・・・。

もう一本は「あらさがし」というより、思わず感心してしまった出
来事。アフガン空爆前夜のパキスタンより、街の緊張を伝える某局
の記者。「街を歩いていると、突然誰何(すいか)されるような雰
囲気で・・・」と何とも文学的な言い回し。慌てて「突然“おまえ
は誰か”と尋ねられるような・・・」と言い直してましたが、う〜
ん、国文出身だろうか、この人。実は普段からこんな言葉で話して
いたりして。しかし「誰何」なんて、最近じゃ文章の中でも滅多に
お目にかかれない言葉。何だか笑える。

●わらいぐま観察記

立派な成人病予備軍のさん生にとって、ダイエットは永遠の課題で
ある。血圧を低くし、コレステロール値を下げ、γGTPを正常値に
戻すことが、実は早急に要求されている。それでも数年前よりは随
分とましになった。要は油っこいものを避け、お酒の量を減らし、
高タンパク低カロリーの食事を心掛ければいいだけのこと。外では
ともかく、家ではなるたけそういうメニューを用意し、身体に良い
ものは積極的に取り入れるよう配慮している。

にもかかわらず、どうしても揚げ物が食べたいらしい。毎朝、と言
っても昼近くだが、食事をして暫くするとふらっと出掛ける。何を
しに行ったのかと思えば、コロッケとかハムカツとかメンチカツと
か、そういったものを買って帰ってくる。ウスターソースをたっぷ
りかけて、うまそうに頬張りながらお昼のニュースを眺めている姿
は、ほとんど子供である。

朝食が軽すぎるのだろうか? ちなみに朝は目玉焼きに納豆、具沢
山の味噌汁が定番で、そこに日替わりで、粉ふきいもやトマト、お
新香、海苔、サラダ、あるいは野菜炒め、といったサイドメニュー
が並ぶ。前日の残り物がつくこともあるし、場合によっては豚の生
姜焼きとか、ウインナーといった動物性タンパク質が膳にのぼるこ
ともある。カロリー的には大したことはないが、栄養価は十分であ
る。先日は思い切って、カキのキムチ炒めを出してみたが、食べ終
わって一時間ほどしたら、やっぱりいそいそとコロッケを買いに出
ていった。

「早死にするよ」と忠告だけは欠かさぬようにしているが、これだ
けはどうにも止められない悪癖のようである。最近は私もすっかり
あきらめムードだ。ただ一つ気になるのは外聞である。「あそこの
奥さん、旦那に料理をつくってあげないのかしら」なんてひそかに
噂されていたりして。岡田美里が離婚した時、出来合いのコロッケ
を良く買っていたというエピソードがやたらと喧伝されていたのを
思い出す。風評というのは恐ろしい。くわばら、くわばら。

●抄録(あとがきにかえて)

▼ソニーファミリークラブから通信販売されている志ん朝師匠の落
語CD集。8日の朝刊に「追悼 志ん朝の名人芸は、ここに生きて
いる。」とのコピーで広告が載っていた。恐らく従来の原稿に少々手
を入れ、コピーを変えたもの。商売柄、制作者のギャランティーに
つい想像が及ぶ。人の死に便乗するなんて感心できないよな、と思
いつつ、これが全然別のジャンルだったら、私だって喜んで仕事を
受けていただろうと考えると、複雑な心境に。

▼仕事が少々暇だったので出し始めたメルマガ。ところが発行以来
どういうわけか仕事の切れ目がない。今週も火曜に打ち合わせ、金
曜に原稿アップ。来週も月曜に打ち合わせが入っている。年末にか
けて締め切りが前倒しになっているのも原因の一つだが、なぜに平
均して来てくれないのか、恨めしい。


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