噺家のかみさんとして、あるまじきことなのかもしれないが、実は
相当な人見知りである。他人とうちとけるのに、まずかなりの時間
を要するし、一旦うちとけたあとでも、心から和んで話せるように
なるにはさらに手間ひまがかかる。近頃は年齢とともに老獪さを増
してきたせいか、以前に比べればさほどひどくはなくなったものの、
それでもいまだに人の眼を見て話すのは得手ではない。
人の眼を見て話せないのは心にやましさがあるからだ、と言われる
が、それがほんとうなら私などさしずめ「やましさのかたまり」と
いったところだ。相手が初対面の場合は尚更である。今知り合った
ばかりの人の目を平気でのぞき込むなどという、そんな恐ろしいこ
とは私には到底出来そうにない。
その人が何を考えているのか、何を抱え込んでいるのかなどといっ
たことは、無論ちょっと見ただけでわかるはずもない。だが、わか
らないからこその恐ろしさというものはある。ろくに知りもしない
はずの相手の眼の中に、悪意が潜んでいたり、憎悪が燃えていたり
したら、そして、たまさかそれを覗き見てしまったとしたら・・・。
そう思うと総毛立つほどに恐ろしい。ほとんどサイコスリラーの世
界である。
見られる方も、ほんとうは嫌なんじゃないのか、と思うときがある。
いくら何でも見られたくないものはあるに違いない。たとえばひそ
かな恋心、それも道ならぬ恋の片思い、なんて相手に知られた途端
に自殺したくなるほど恥ずかしいのではなかろうか。ところがそう
いう困った感情に限って、眼は案外如実に真実を語る。眼とは、か
くも厄介な代物なのである。
隠すことで保てる美しさ、それを日本では「たしなみ」あるいは
「つつしみ」と呼ぶ。眼を見るということは、つまりそういう領域、
隠しておきたい、または隠しておかなければならない感情、領域に、
土足で踏み込んで行くことにつながるような気がして仕方がない。
考えてみれば、話すときは相手の眼をきちんと見るべきだ、などと
いう些か無遠慮で無粋な思想は、本来日本にはなかったのではない
かと思う。むしろ慎み深く伏し目がちで話す姿勢が、かつては好ま
れたのではないか。だからこそ乾坤一擲、ここぞというときに眼を
射る、眼で殺す、眼で倒す、そういうことが可能になるのではない
か、などと勝手に想像しているのだが、所詮はいつまでたっても人
見知りを直せないでいる意志薄弱な人間の負け惜しみなのだろう。
だいたい私自身が、隠すことで云々、などという慎み深い女性では
ない。心の奥の「やましさ」も含めてまるで開けっぴろげである。
まったく無防備もいいところだ。だが、だからこそ、そこに踏み込
まれるのを極端に恐れるのである。相手の領域を侵すことより、自
分の領域を侵されることに、多分、より大きな恐怖を感じるのだ。
人見知りというのは、恐らくそういうものである。要するに人一倍
小心で、臆病で、自分の卑小な姿を見透かされるのを何よりも恐れ
ているのである。そこには実は人から良く見られたいという、少な
からぬ虚栄心も混じっているわけで、そのように突き詰めてゆくと、
何だか自分がひどく情けない人間のようにも思えるが、同時に愛お
しさも禁じ得ない気持ちにもなるから不思議である。結局のところ、
人見知りの強い人間ほど、自己愛もまた強いのかもしれない。
いずれにしても冒頭にも書いた通り、噺家のかみさんとしてはこの
性格は明らかにマイナスである。噺家はいわば客商売、かみさんは
その補佐役をつとめる立場なのだから、誰とでも抵抗なく馴染める
ような性格が望ましいことは言うまでもない。出来れば夫の名代と
して方々に挨拶に出向いて尻込みしないような、そういうかみさん
こそが理想であるに違いない。
さん生も私に、そういうかみさんになってほしいと思っていたのか
もしれない。「そんなに怖がることはないじゃないか」と時折心底
から呆れている。富山の繁華街で育った彼は、幼い頃から人見知り
はおろか、物怖じすらほとんどしなかったという。赤の他人に平気
でなつくような子供だったらしい。そんな彼には私の極端な人見知
りが不思議でならないのだろう。
残念ながら、私の人見知りはちょっとやそっとでは直りそうにもな
い。どうかすると新聞の勧誘や訪問販売のセールスマンにまで人見
知りするほどなのだから、馴染みのない場所を訪ねて、馴染みのな
い人と挨拶を交わし、十年来の既知のように世間話をするなどとい
う芸当は、とてもできっこない。
それでも曲がりなりにも18年近く、噺家のかみさんをやっている。
他に使い道があるからだろう、などと自分で自分を慰めることもあ
るが、ここはやはり寛大な夫に、まずは感謝しなければならないだ
ろう。